音読・福富草子絵巻

Narration: The Tale of Fukutomi


朗読:  楊  暁捷・吉橋さやか  

制作:  楊  暁捷(X. Jie Yang)

 

 


コラム

ブログ:「絵巻三昧」掲載 
2008年10月26日    


赤鼻の図像学

宮腰直人

絵巻を読むのは、文句なく面白い。その愉しさにどう迫るか。どんな着眼点があり得るのだろうか。毎回、この絵巻三昧でも豊富なトピックが掲げられ、様々な角度から絵巻の面白さが言及されている。普段は、ブログの更新を楽しみに待つだけの私だが、音読『福富草紙』の登場にあわせて、再び、寄稿させて頂くことになった。絵巻の音読とその公開、そしてブログの更新をコツコツと続けてくださる、楊さんにこの場を借りて御礼申し上げたい。

さて、私は今回の機会を得て、『福富草紙』を手かがりに絵巻における人物形象(キャラクター)の問題を素描してみたいと思う。

『福富草紙』の主人公は「秀武」という人物である。「秀武」は、古びた烏帽子をかぶり、顔には幾重もの皺が刻まれ、あごには無精髭を生やしている。もっとも特徴的なのは、その赤い鷲鼻、赤い鼻先である。やや鋭さを感じる目つきと、赤鼻の取り合わせは、「秀武」を印象深い初老の男にしている。

一見、冴えない赤鼻の初老の男が放屁の芸で富を得るのがこの絵巻の眼目である。初老、あるいは老人が主人公となるという点においても、この物語は注目されるのだが、この「秀武」の赤鼻、じつはさほど珍しいわけではない。中世の絵巻をひもとくと、すぐに数例見いだすことができる。宮本常一が主に執筆を担当したという、『絵巻物による日本常民生活絵引』(以下、『絵引』と略記)には、ズバリ、『信貴山縁起』の「赤鼻の僧」が立項されている。この項目では、『医心方』が参照され、赤鼻は病であるとされている。『信貴山縁起』には他にも延喜加持の巻に赤鼻の男が描かれている。『絵引』には、加えて『石山寺縁起』や『春日権現験記』の例(いずれも僧)があがっている。

『絵引』の魅力は、個々の事柄の読み解き(民俗的な事象をも含む)もさることながら、同時にそれが《かたち》のインデックスにもなっている点にある。「赤鼻」の項目を検すれば、病としての赤鼻だけではなく、それが同時に鼻をめぐる《かたち》の問題も秘めていることを『絵引』の数例は示唆しているわけである。

『福富草紙』の「秀武」の赤鼻も、あるいは病であったかもしれない。しかし、それとともに考えてみたいのは、赤鼻の男がもっていたであろう、あるイメージである。「秀武」は、貧しくそれを脱するために放屁の芸を授かるわけだが、この冴えない男を描くのにあたって、絵師はなぜこのような形象を用いたのだろうか、と。

『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』には、芥川龍之介の小説で有名な、禅珍内供「鼻長の僧」をめぐる説話が採録されている。直接的な対応はともかく、絵巻で描かれる赤鼻の人物たちと、説話集に記しとどめられた僧の形象とはそう遠くないように思われる。絵巻であれ、説話集であれ、一人の登場人物をいささか個性的に形象化するのにあたって、「赤鼻」や「鼻長」は、うってつけの素材の一つであったのに違いない。

唐突だが、このこととあわせて想起されるのは、『源氏物語絵巻』等で、いわゆる「引目鉤鼻」によってあらわされた、男女の貴族たちの人物形象である。ごく定型的な貴族の男女の容貌以外にも、人物形象の定型を考えてもよいのではないだろうか。『絵引』の数例からでも、「秀武」ら一連の赤鼻の人々をみると、どうもこれだって人物形象の定型の一つと見なしうるのではないかと思えてくる。

ここで話題は一気に絵巻からマンガに飛ぶ。手塚治虫は、彼のマンガの登場人物たちを、それぞれ一人の俳優に見立てて、多様なマンガに役をかえて登場させた。「スターシステム」という、この仕組みは、手塚マンガの読者にお馴染みの人物たち―「ヒゲオヤジ」や「アセチレン・ランプ」等―を各マンガへ「出演」させることによって、彼の世界に奥行きを与えることに成功した。手塚治虫程、徹底はしていないけれども、これに類する手法は、他のマンガ家も用いている。藤子不二雄のマンガには、ラーメン好きの小池さん、水木しげるのマンガには、眼鏡で出っ歯の男が読者に馴染みの人物としてしばしば登場する。主要人物を邪魔しないよう、さりげなく、しかし幾分個性的に、愛読者たちに、ある共感や親近感を添える役割を担って、これらの脇役たちは物語内に配されている。

絵師や読者たちのなかで、はたしてどれだけ絵巻の人物形象のレパートリーが共有されていたのだろうか。絵巻で時折見かける脇役であった、赤鼻の男が致富譚の主人公になったことを読者たちはどんな思いで受け止めていたのだろうか。どうやら《お馴染みの》ということが、この問題を考える鍵になりそうである。絵巻の作り手たちとその読者、各々の歴史的な《現場》ので何が起こっていたのか。具体的な図像の展開とともに考えてみたい問題である。さらに『福富草紙』には、絵の中に言葉を記す「画中詞」の問題もある。こちらはさて、音読とどう関わるのか―。『福富草紙』が投げかける問題は思いのほか大きいように思えてならない。


 

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