絵巻詞書集

  源氏物語絵巻
東屋・二

東屋・一→ 


しのびやかに、かどうちたゝく。「さにやあ
らむ」とおもひて、弁のあまぎみ、あけ
させたれば、くるまをぞひきいるな
る。「あやし」とおもふに、「あきぎみにたいめ
たまはらむ」とて、このちかきあづか
りのなのりを、せさせたまへれば、
とぐちに、ゐざりいでたり。あめのうち
そゝぐに、風のいとひやゝかにふきい
りて、いひしらず、かをりくれば、「かう
なりけり」と、たれもこゝろときめき
つき、けはひをかしければ、よう
いもなく、あやしきに、まだ、おもひあへ
ぬほどなれば、心さわぎにて、「いかなる
事にか」と、いひあへり。「こゝろやすきと
ころにて、月ごろ、おもひあまることもき
こえさせむ」とて、「なむ」といはせたまへり。
「いかに、きこゆべきことにか」と、きみはくる
しうおもひてゐたまへれど、めのと
などのくるしがりて、「しかおはしますら
むを、たちながらやは、かへしたてまつ
りたまはむと、殿にこそ、『かくなむ』と、し
のびてきこえめ、ちかきほどなり」といふ。
「いとかひ/\しく、などてか、さは、あらむ。わかき
御どち、ものきこえたまはむことは、ふか
くしみつくべくもあらぬを。いと、あやしきまで、
心のどかにおはするとのなれば、よも、人のゆるしなく
て、うちとけたまはじ」など、いふほど、あめはや
ゝふりて、そらはいとくらし。とのひゞとのあやしきこ
ゑなる、夜行うちして、「やかのたつみの
すみのくづれ、あやふし」「この、ひとのみくる
まいれむとおもはゞ、いれて、みかどさして
よ」「かゝる、ひとのみともびとぞ、うたゝある」な
ど、いひあへる。むく/\しくきゝならはぬこゝちし
たまふ。「さのゝわたりに、いへもあらむ」など、く
ちずさびたまて、さとびたるすのこのはし
つかたに、ついゐたまへり。
 さしとむるむぐらやしげきあづ
 まやのあまりほどふるあまそゝ
 ぎかな」
と、うちはらひたまへるおひかぜ、いと、か
たわなるまで、あづまやのとびと、おど
ろきぬべし。
【読み下し】
忍びやかに、門打ち叩く。「然にやあ
らむ」と思ひて、弁の尼君、開け
させたれば、車をぞ引き入るな
る。「怪し」と思ふに、「尼君に対面
給はらむ」とて、この近き預
の名乗りを、せさせ給へれば、
戸口に、膝行出でたり。雨の打ち
注ぐに、風のいと冷ややかに吹き入
りて、言ひ知らず、薫り来れば、「斯う
成りけり」と、誰も心ときめき
つき、気配をかしけれど、用
意もなく、怪しきに、まだ、思ひあへ
ぬ程なれば、心騒ぎにて、「いかなる
事にか」と、言ひあへり。「心安き所
にて、月頃、思ひあまる事も聞
こえさせむ」とて、「なむ」と言はせ給へり。
「いかに、聞こゆべきことにか」と、君は苦
しう思ひて居給へれど、乳母
などの苦しがりて、「然か御座しますら
むを、立ちながらやは、帰し奉
り給はむと、殿にこそ、『斯くなむ』と、忍
びて聞こえめ、近き程なり」と言ふ。
「いと甲斐甲斐しく、何どてか、然は、あらむ。若き
御どち、物聞こえ給はむことは、深
く染み着くべくもあらぬを。いと、怪しきまで、
心のどかに御座する殿なれば、よも、人の許しなく
て、うち解け給はじ」など、言ふ程、雨はや
や降りて、空はいと暗し。宿直人の怪しき声
なる、夜行うちして、「宅の辰巳の
隅の崩れ、危ふし」「この、人の御車
入れむと思はば、入れて、御門鎖して
よ」「かかる、人の御供人ぞ、うたたある」な
ど、言ひ合へる。むくむくしく聞きならはぬ心地し
給ふ。「佐野の辺りに、家もあらむ」など、口
ずさび給(ひ)て、里びたる簀の子の端
つ方に、つい居給へり。
 さしとむる葎や繁き東
 屋のあまり程ふる雨注
 ぎかな」
と、うち払い給へる追風、いと、か
たわなるまで、東屋の里人、驚
きぬべし。