絵巻詞書集

 吉備大臣入唐絵巻
第二巻

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よなかばかりにはなるらむとおもふ
ほどにあめふりかぜふきなどし
て身のけたちておぼゆるにいぬゐ
のかたよりおにうかひきたるきび
身をかくすふをつくりておに
えずなからきびのいはくいかなるも
のぞわれはこれ日本国の王のおほ
むつかひなりわうじもろきことなし
おになむぞうかふやといふにおにこ
たへていはくもともうれしきこと
なりわれも日本国のけむたうしに
てわたれりしものなりものかたりせむ
とおもふといふにきびこたへていは
くあはむとおもはおにのかたちをかへ
てきたるべしといふにおにかへりさり
ていくわむをしていできたりきび
あひぬをにまづいはくわれはこれ
日本のけむたうしなりわがしそむ
あべのうぢはべりやこのこときかむ
とおもふにいまにかなはぬなりわれは
きびにてきたりてはべりたりしにこ
のろうにのぼせられてくひものを
あたへざりしかばうゑしにてかるをに
となりてこのろうにすみはべるなり
人をがいせむ心なけれどもわがすが
たをみるにたへずしてしにあひた
るなりわがくにのことをとはむとする
にもこたふることなしけふさいはい
に貴下にあひたてまつりたりよろこぶ
ところなりわがしそむは官位はべりや
といふ大臣くはしくありさまをかたる
をきておにおほきによろこびてい
はくこのをむにはこのくにのこと
をみなかたりまうさむとおもふなり
といふ大臣よろこびてもともたいせつ
なりといふによあけなむとすれば
おにかへりぬ

【読み下し】
夜中ばかりにはなるらむと思ふ
ほどに、雨降り風吹きなどし
て、身の毛立ちて覚ゆるに、乾
の方より鬼伺ひきたる。吉備
身を隠す符を作りて鬼に見
えずなから、吉備の曰く、「如何なるも
のぞ。我れはこれ、日本国の王の御
使ひなり。王事もろきことなし。
鬼なむぞ伺ふや」といふに、鬼答
へて曰く、「最も嬉しきこと
なり。われも日本国の遣唐使に
て渡れりしものなり。物語りせむ
と思ふ」といふに、吉備答へて曰
く、「会はむと思は、鬼の形を変へ
て来たるべし」といふに、鬼帰り去り
て、衣冠をして出来きたり。吉備
会ひぬ。鬼まづ曰く、「われはこれ
日本の遣唐使なり。わが子孫
阿部の氏はべりや。このこと聞かむ
と思ふに、いまに叶はぬなり。われは
吉備にて来たりてはべりたりしに、こ
の楼に登せられて、食ひものを
与へざりしかば、餓ゑ死にてかる鬼
となりて、この楼に棲みはべるなり。
人を害せむ心なけれども、わか姿
を見るに耐へずして死に遭ひた
るなり。わが国のことを問はむとする
にも答ふることなし。今日、幸い
に貴下に会ひたてまつりたり。喜ぶ
ところなり。わが子孫は官位はべりや」
といふ。大臣詳しくありさまを語る
を聞きて、鬼おほきに喜びてい
はく、「この恩には、この国のこと
をみな語り申さむと思ふなり」
といふ。大臣喜びて「最も大切
なり」といふに、夜明けなむとすれば、
おに帰りぬ。